沈黙の泉


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アントニー・デ・メロ  著     古橋 昌尚  訳

 

「沈黙」と「泉」どちらも私は好きな言葉だ。

沈黙があるからその人の本当の姿が見えてくる。

「言葉」だけで捉えず、相手の「表情」や「態度・行動」で感じ取ることができるから。

 

「泉」を辞書で引いてみると、

地下水が自然に地表にわき出る所。また、そのわき出た水。湧泉(ゆうせん)

 物事が出てくるもと。源泉。
なんかこんこんと湧き出る水ってものすごく清らかな感じで、命に繋がる感じがしてとても好き。
”本書の二百余りにも及ぶ物語には『導師』が現れてくるが、同一の人物ではない。
あるときにはヒンドゥー教の導師であったり、禅の老師、道教の賢者であったり、
またユダヤ教の教師、キリスト教の修道士、イスラム教のスーフィズムの神秘家であったりもする。
もっと具体的に言うと、その『導師』は老子やソクラテスであり、釈迦やイエズスであり、
ツァラトゥストラ(ゾロアスター教の教祖)やモハメッドである。
その教えは紀元前7世紀にも、この20世紀の時代にも見いだされるようなものである。
その知恵は東洋でも西洋でも同じように妥当する。
こうした教師たちに関する歴史的な説明などははたして大切なことだろうか?
歴史とは、つまるところ、外面に現れた出来事の記録であり、『現実』ではないのだ。
また、それは、教説の記録であって、『沈黙』の記録ではないのだから。”
この本、最初、ほんとに書かれていることが理解できなくてモヤモヤします。
ずっと内容が心に引っかかり、幾度となく思い出し・・・取り出して考えてみる・・・を繰り返し、
ひょっとするとこういうことかな?
と、いつかなんとなく納得できる日がやってくる。
そんな感じです。
  本を開く度、書かれている内容は同じことのはずなのに、自分自身の解釈が違ってくるのが楽しいです。
 一緒に解釈を話し合ったりできる、誰かと、一緒に読んでみることもおすすめします。
”34  運命  さだめ
おのれの運命に愚痴をこぼす女がいた。師は女に言った。
「運命とは自分でつくりだしてゆくものではないか。」
「でも女に生まれついたことには
なんの手立てもありゃしません。」
「女に生まれついたことを運命とは呼ばん。
それは摂理と言うもんじゃ。運命とは
自分が女であることを受け入れ、
それをいかに活かしてゆくかにかかっておるのじゃ。」
110   解放
「すべてから解き放たれたいのですが、
どうしたらよいでしょうか?」
「だれがおまえを縛りつけておるのか、見つけだす
ことじゃ。」
一週間して、その弟子が戻ってくると、
こう言った。「だれもわたしを縛りつけている者など
おりませんでした。」
「それではなぜ、解き放たれたいなどというのか?」
そのとき、弟子はまさに悟りを得、
一瞬にして、自由の身となっていた。”
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